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閉鎖的共同体と妄想

 小さな田舎町。固定的なコミュニティ。どこそこの家で子猫が生まれたことも、知れ渡っている。こうした前近代的な閉鎖的社会には「プライヴァシー」がありません。自分の身に起こった様々な出来事を、今このときも、誰かが話題にしているかもしれない.....。
 いつ、どこから見られているかもしれないとなると、「姿勢を正さなくては」「羽目を外してはいけない」などと、ついつい考えて身構えてしまうのも無理はありません。
 その共同体で正しいとされている規範を守らなければ、陰での批判、敬遠などの村八分的制裁が待っているのです。それを恐れて、従順に規範に従う者は、一方で、それに誇りを持つようになります。
そして、守りたくもない規範を自分も守っているのに、逸脱する者がいるのは許せないというわけでしょうか。社会は逸脱者を矯正しようとします。

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 暗黙の了解、拘束と見えない拘束によって守られる規範は、一見道徳的に見えても、道徳的ではありません。
 異質な者を排除し、一つの規範を押し付けるのは、権力だからです。その『法』が、多様な人々の一人ひとりにどう作用するかを、個別に考えようとせず、ただ『法』だから、『常識だから』『それは前例の無いことだから....』
 こうした規範至上主義は、個々人の事情、その背後にある、人の人としての生への本能的な欲望を考慮せず、懲罰的に臨みます。
 見捨てられ不安が強く、自己評価が他者依存的な人は、ともかく守ろうとします。規範を守ること=自分を守ることです。規範の内容は問題ではありません。意見がふたつに分かれ、多数決になったような場合は、多数派につきます。
 後ろ指をさされたくない、と思っていると、自分の些細な行動が気になり始めます。
 たとえば、職場の若い女性と一緒に居るところに通りかかったあの人は、どう思っただろうか、みんなに噂しているんじゃないだろうか、悪い噂が立って職場で居づらくなるのではないだろうか。
 妄想は内側の不安の投影です。「そういえば、昔、女性問題で職場を追われた同僚も居た」このままでは自分も二の舞になってしまう。何とかしなければ.....
 こうなると、自分から話し掛けたはずの相手の女性を、まるで迫害者のように感じてしまいます。「彼女がわたしの職を危うくしている」と彼は、相手を攻撃するにいたったのです。
「浮いた噂はこの世の花。ひとつも無いようじゃ寂しい。」と思えるような人なら、こうはならないのですが。
 閉鎖性の強いコミュニティでは、人と違うことや出過ぎたことをする者への制裁が起きてきます。逃げ場としてのプライヴァシーがないと、人は自分を見失っていることにも気付きにくいのかもしれません。
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テーマ: 不安定な心 | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 認知と社会

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