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宗教とアイデンティティ

 医療と市場経済の発達によって、宗教やシャーマニズムは、当然淘汰されていく文化と、誰しもが考えるでしょう。ところが、科学がエビデンスを提示しても、神秘主義や信仰は、それに抵抗するかのように、一部の人たちを惹きつけています。
 原理主義者と呼ばれる人たちは、聖書に書かれてある言葉を、全て額面どおりに受け取ります。
 印刷技術のなかった時代、一握りの文字を解する人々によって、一文字一文字書き写されていく中で、誤字や脱字、あるいは自分の解釈によって、意味を持たせたり膨らませ、次第に難解になってきた聖書を、時代背景抜きに、現代社会に当てはめようとします。

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 後世、神の座に上げられた人も、当時を生きたひとりの人間であるという視点なくしては、その悲壮な人生の悲哀も見えてはきませんが、ともあれ、
 「目には見えないが、神は確かに存在し、自分を愛し、許してくれている。」という確信なくしては、寄る辺のない人もいるでしょう。
  だからといって、神に「許されている」からといって、毎日教会に通っているからといって、特別な人間ではありません。
 ところが、この信仰を盾にして、自分は霊的な修行を積んでいる人間であり、市場経済の波に揉まれて生きている人たちは、人格として格下だと考えている人たちも居ます。
 他の社会に居場所を見出せない、とある人たちは、自らの低い自尊心を防衛するために、この信仰心を使います。非常に権威主義的で、その基準が信仰なのです。
 もはや、後世の人々の手によって幾重にも塗り固められたことなど、問題ではないかのようです。それが聖書であるから、その言葉の前に、ただ服従するのです。
 そこから得るものは、自己責任の放棄という安堵感と、選民意識という美酒でしょうか。
この報酬は、ここしかない、ここにしか居場所のない人を、まさしく神のように傲慢にしてしまいます。

 信仰心は、片想いの激しい恋愛感情に似ています。「あの人はそういう人じゃない。あの人はこういう人なの。」と信じたいから、『あの人はこういう人』なのです。
 熱狂は、それに反する情報を退けます。
片想いのその人とは、TV越しにしか逢えないなら、確かめようがありません。ましてや、空の彼方にいる目には見えない存在なら、なおのこと。
   原理主義者は、歴史と社会学と心理学の視点で、その宗教を照らすことを嫌います。
 目を開けて見ようとしても、信仰は見えないというのです。目を閉じなければ見えないなら、それは妄信です。

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テーマ: 不安定な心 | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 認知と社会

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