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なぜ若者が「宗教」を求めるのか

 オウム真理教事件を初めとして、宗教団体が社会の注目を集めるとき、それは途方もなく非現実的な反社会的事件が表面化したときです。人々は彼らの言い分に共感できず、理解さえもできず、なぜ成績優秀だった彼らが、そうした思想に囚われてしまったのかと、首を傾げます。
 翻って考えれば、地に足の着いた現実感を持たない若い頃ほど、宗教的信念に染まりやすいといえるでしょう。子供の頃は、いやな現実から目を背け、アニメや漫画の延長線上の空想にふける「逃避」が占める時間は長いものです。大人になるにしたがって、現実問題を考える時間が長くなり、空想する時間は減少していきます。そして、眠っている時間以外は、夢を見なくなってしまいます。この現実の枠を超えて、科学で説明のつかない神秘的なことなど、そうそうありはしないことを、経験として知っているのです。

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若くて、経験値が乏しく、空想力が豊かで、疑う心を持たないほど、提示された思想を、咀嚼することなく飲み込みやすいといえそうです。
 直接の動機は孤独かもしれません。多忙で人間関係の希薄な現代は、特に用もないけれど、逢って、あれこれ意味のない話をしながら、関係性を深めていく、そうした機会が少ないといえるのかもしれません。生活環境の中で、なんとなく孤立感を感じてしまうこともあるでしょう。
 友達がほしい。所属する場所がほしい。そうした潜在的な欲求があるところに、「サークル」のお誘いがあれば、とりあえず出向いてみたくなるのも無理からぬことです。また、「サークル」の人たちは、好意的に接してきます。ゆっくり内面的な事柄を話し合う場が提供されることもあるでしょう。そこで、気の合う相手が見つかったり、なんらかの能力を認められて、役割を与えられたら、抜けにくくなることでしょう。
 それがどういう集団であれ、そこに仲間がいて、楽しいひと時があるのは魅力です。ですが、それだけで、その集団の指導者や教典に記されてあることを真に受けるわけではありません。去るもの、残るもの、友人としては付き合うけれど、思想を共有はせず、線引きをするものと分かれる事になるでしょう。
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テーマ: 不安定な心 | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 認知と社会

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