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犠牲と善行

 雨に降られたとき、傘を差し出してくれたり、同じ方向だから一緒に帰りましょうと声を掛けてくれる人がいると、その人の好意がありがたく、暖かい気持ちになれるものです。ところが、車中でその人がふくれっ面をして一言も口をきかなかったり、とげとげしい態度をとり続けていたら、温もりは凍りつき、針のむしろです。
 「やれやれ、どうやら社交辞令を真に受けてしまったみたいだ」と内心ため息をつきながらも、でも、なぜ?という疑問が沸き起こります。いやならば誘わなければいいのに、なぜ、この人は心にもないことを言ったのだろうか? そういえば、この人は周囲に人がいるときと、いないときとでは、ずいぶん態度が違う。
 表裏のある人は、ギャラリーの前では善行を行います。自分が役に立つ人、優しい人であるという印象を、周囲に与えたいのでしょう。外界からの感謝と評判で、自分の値打ちを測っているか、さもなければ、善行を積み重ねなければ、天国の門をくぐれないと思っているのでしょうか。いずれにせよ、自分が相手に与えているものは善だと信じているに違いありません。

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ですが、怒りながら、苦々しく思いながら、内心の抵抗を非言語のうちに滲ませながら与える贈り物を受け取る相手は、それを善とは受け取れません。むしろ、相手が総身から放っている『毒』に触れるまいと、離れていくでしょう。
 こうした時、「自分のことを二の次にして、人のために尽くしているのに、感謝されなくて惨めだ。」と、相手に対して憤りを感じるなら、そこにある自己欺瞞、エゴや渇望に気付いていないのです。人の役に立とうとするとき、自分のたいせつな時間やお金、動力などを犠牲にしていると感じているとしたら、それはやりすぎています。そうまでして、欲しいものがあるという渇望を示しているのです。
 皮肉なことに、『辛い献身や奉仕を通して自己を高めよう』という意気込みを放棄したとき、それを与えられるのです。同行してうれしいのは、「困っている人を助けるのは正しいことです。私は正しいことができる人間です。だから送ってあげます。」という人よりも、「一人で帰るより、二人の方が楽しいから。」という人ですから。
 まず、自分が楽しいこと。それが相手に贈る最大の奉仕です。
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テーマ: 不安定な心 | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 共依存

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