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自分を守ろうとして恋を失う

 DV加害者と呼ばれる人に共通する特徴のひとつ。それは、決して謝らないこと。相手の言動で傷ついたことを告げると、予期していた謝罪はなく、逆切れして激昂し、自己正当化してこちらに非があるかのように責め立ててくる。一言ごめんといってくれれば、それで気持ちは収まるし、傷つきも癒されて、また明日から仲良くできると思っていたのに、何故、火に油を注ぐような態度をとるのか、この人はいったい何を考えているのかわからない。だいたい、火を沈めるのは水でしょ!!

 往々にして、彼は自分を救おうとしているのです。「あなたの態度で傷ついた。だから謝れ。」というその攻撃から。
 傷ついている相手の痛みなど知ろうとする余裕もないほどに、不完全な自己を受け入れることを恐れ、代償を支払う負担に耐えかねて、それを支払う理由などないと突っぱねているのです。
 自分のミスを潔く認めず、弱い立場の誰かに責任転嫁して、まんまと逃げおうせると、自分の言い分の正当化に成功したと胸をなでおろします。一度これに成功すると、習い性になってしまいます。良心の呵責を起こさない装置として、自己正当化や解離性健忘があるのです。

 「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」ルカ福音書
聖書には、このような謎めいた一文があります。ここでいういのちとは、社会的生命のことでしょう。名声や評判を気にして、それを守ろうと必死になって、声高に自分の業績や、家族の自慢話まで持ち出せば、聞いているものは嫌気がさしてきます。「みんなに立派な先生だと言って貰っている。」などといっていては、自尊心の乏しさを見透かされ、お世辞に容易に踊らされることもあるかもしけれません。
 ましてや、些細なことに激昂して、相手の退路を立って責め立てる様は、とうてい人格者のそれではありません。


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遠くにあるものはきれいに見えます。対面を気にする人は、上等の外套で自らを上等の人間に見せかけるのは得意です。表面的な付き合いの人たちは、その二面性に気付かないことも多いでしょう。ですが、傍にいてともに生きていきたいと願っている相手の目までは、ごまかせません。その二面性が解るからこそ、抗議もしたくなります。
 そして、この意見が的を得ていればいるほど、それは攻撃と受け取られます。相手に征服されないために、相手を征服しておく必要があるというものです。自分の内面の弱さを、自分からも他者からも隠しておくために、たとえパートナーであろうとも、心の距離が近づきすぎるのは脅威なのです。
 
  水の少ない水筒はパシャパシャと音を立てます。優越コンプレックスの強い人ほど、自己ピーアールに余念がありません。
 もしも誰かがお世辞ではなく自然な気持ちで、何かを褒めてくれたら、それには素直にありがとうをいうのが自然です。ここで舞い上がって「木に登った豚」になってしまっては、評価如何によって容易に滑り落ちてしまいます。
 自分の力と限界を知っている人は、どう評価されても舞い上がることも、凹む事もありません。人からの評価に踊らされて、常に有能で間違わないエリートを演じる必要もないのです。
 
 自分のいのち(人望)を守ろうとする人はそれを失い、「こんな人だとは思わなかった!」ということばとともに恋が終ってしまうことも、ありがちなことです。

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