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他力本願と無価値感

 学歴や社会的ポジション、収入、ルックスなど、自分が価値を置いている資質が優れている相手と対するとき、無意識のうちにコンプレックスが生まれることがあります。まして相手が好意を寄せる異性なら、こんなに素敵な人が自分なんて本気で好きになってくれるはずがないといった、無価値感が生じてきます。
  すると、相手にふさわしい自分になろうと、相手は価値を置いているけれど自分は興味のない分野の勉強や仕事に熱心に取り組んだり、相手にとって理想的な自己像を演出したり、自分の意見を言うことに不安を感じて、本音が言えなくなってしまいます。
 ありのままの自分では受け入れられないという自己否定が胸中にありますから、相手の言動も否定的に解釈しがちになってきます。そして、自分を抑圧して、相手や周囲のニーズに沿って生きようとするのですから、だんだん苦しくなってきます。にもかかわらず、無価値感に苛まれていると、往々にしてさらに頑張ってしまいます。
 これは自分の人生を生きていない状態です。意中の相手から愛されたり、仲間から受け入れられるのは幸せですが、愛されることへの願いが強くなりすぎると、相手に振り回されてしまいます。 
   意中の人や、友人のためにと、自分の時間や動力を捧げているのですから、相手がその犠牲に報いてくれなければ惨めな気持ちになります。自らの幸福の主導権を相手にゆだねてしまっているからです。

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こんなとき、心の中には見捨てられることへの不安や、孤独への恐れがあります。周囲と協調して仲良くやっていくのが良いことで、対立や、孤独や孤立は良くないことだといった刷り込み教育を、子供の頃に受けているのかもしれません。協調すること、相手の役に立つことそれ自体に問題があるわけではなく、強迫的にそうしなければならないと自分を追い詰めてしまう状況が問題となるのです。

 仕事や地域社会や時代が持つ固有の世界観にも、人は近視眼的に縛られることが多々あります。自分の所属する集団が、そのルールに反しているとしてひとりの個人に制裁を加えるとき、そのルールそのものが横暴で広い社会全体に共通したものではないとしても、攻撃された人の人権を守るために声を上げることが難しい、といったことは珍しくありません。

 子供の頃、大人が決めたルールに従っていれば、その結果がうまくいかなくても、責任を取らされることはありませんでした。大人になっても、多数派の意見に従えば、バッシングされることはありません。
 異なる様々な人々の中で、自分の意見を述べることは、対立や孤立も覚悟しなければなりません。これを恐れると、内心はどうあれ、表面的には、日和見主義の八方美人になってしまいます。それはそれで、器用で賢い生き方といえるかもしれませんが、経験の中で培ってきた独自の世界観や感情を大切にしたいという思いは満たされません。
 
  私たちは様々な幸福の基準を定めています。恋人がいること、結婚していること、安定した職場に勤めていること、安定した収入があること、常に周囲からの良い評判を集めていること。それらは、失うまいとすればするほど、自由や自分らしく生きることへの足かせとなります。

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カテゴリ: 恋愛依存

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