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妄執と妄信 妄想性障害の周辺

 りんごを見て、誰も「これをりんごだと信じる」とは言いません。「バナナだと信じる」と言い張ってみても、誰からも相手にされません。「信じる」とは証明しがたい事柄に対して、不安を癒す装置として働きます。「彼の愛を信じる」という具合に。
 信じることによって疑わしい要素を排除します。現実の妥当性から目を背け、希望に基づく推測を確信することによって、安心を得るのです。
 この確信と周囲の理解との乖離が広がれば、問題視されることとなります。カルトは妄執への依存へ導こうと説得します。一度それを受け入れると、別の概念への移行は、容易ではありません。妄執は柔軟さの対極にあるのです。信じた事にしがみつく頑なさのゆえに、妄信があるといえるのでしょう。
 得られているかどうかわからない愛や受容を確信することによって、内心の不安を癒し、安心を得ている図は、理解しやすいでしょう。一方、正体不明の相手から毒を盛られたり、付け狙われたりといった恐ろしい妄想を何故抱くのかとなると、首を傾げてしまいます。闇の中に、亡霊や暗殺者が潜んでいる世界よりも、現実の方がはるかに安全で安心できると思えるのですが。

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 ところが、こうした悲惨な被害妄想の世界でさえ、実は安心を得る装置であると考えられます。誰しも、過去の挫折、拒絶されたり屈辱を感じた経験など、もう二度と起きてほしくないと思うものです。すると、わずかなトラブルの気配にも、過去にあった最悪の事態が甦り、身構えてしまいます。トラブルをもたらす可能性のある他者への、不信感や猜疑心が強まっていきます。
 過去の苦い経験を、目の前の対象に投影して、まだトラブルに発展していない相手に、激しい怒りを感じてしまうこともあるでしょう。
 「この人はAさんに似たタイプだ」から「こういうタイプの人は皆○○に決まっている」といった決め付け、究極的には「周りのニンゲンはみんな........だ」「周りはみんな私を迫害する」になってしまいます。
 過去の挫折や拒絶、そこから受けた侮辱的な感情が癒されていないために、起きている認識といえるでしょう。誰しも、傷ついているときは相手を責めたくなります。こんなときに、第三者から自分の落ち度を指摘されれば、その第三者も敵に見えてしまうかもしれません。
 とはいえ、冷静さを取り戻せば、その出来事に自分が果たした役割が見えてきます。自分の立場ではなく、第三者の目で過去の出来事を再度検証するのです。すべてを責任転嫁して相手を非難するのではなく、自分のせいにして罪の意識に囚われるのでもなく、シナリオライターの視点で、それぞれのキャラクターを動かして、過去の出来事を再構築します。ここを通過しないと、経験から学べません。妄想障害では、これが難しいのです。自分の果たした役割を受け入れがたいのです。
 被害妄想の傾向のある人は、聞いてくれそうな相手には、自分がどれほどの被害を受けたかを、些細な出来事も重大事件のように、延々と語りたがります。事実が都合よく、自分を被害者に仕立てるように徐々に書き換えられていくことも少なくありません。
 世界は凶暴で、自分は無力だから、守られたい。妄想性人格障害にはこうした世界観があります。ですが、近親者もその期待には応えきれません。疎遠な人々には「卑屈で弱弱しい人」に見える妄想性障害が、親しい人には非常に危険になるのは、この「背負って歩いてほしい」という願望が裏切られるときです。
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テーマ: 境界性人格障害 | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 妄想性人格障害

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