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死別という別離

 出会いと別れを繰り返す独身生活にふと疲れを感じる時、「結婚」ということばが脳裏をよぎります。それが安定と安心を与えてくれる生活のように思えるのです。
 ですが、永久の愛を誓ったふたりも、永久の時を共有できるわけではありません。結婚後も心変わりの可能性は付きまといますが、そうした危機を乗り越えて寄り添い、日々の日常に幸せをかみしめていたとしても、それは永遠に続くわけではないのです。いつか死別という別れが訪れます。
 もちろん、知人や親族の葬儀に参列するたびに、生命が不滅でないことを繰り返し知らされています。前頭葉は知識として、それを知っているのです。
 ところが、絆を紡ぐ大脳辺縁系はそうではありません。誰の葬儀に参列しても、所詮それは他人事であり、自分や自分の愛する人たちの身の上には起きないと、漠然とした安心感を抱いているのです。そうした意味では、人は楽観的にできていると言えるかもしれません。
 いつか別れが来るとしても、それは遠い未来、長い人生を共に生きた果てに訪れる出来事と、意識の端に追いやっています。連日報道されている悲惨な事故や事件のニュースも、他人事にすぎません。平均寿命まで後何十年あるとしても、それまでの寿命が、全ての人に保証されているわけではないにもかかわらず。

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そして、突然不意打ちにそれが訪れた時、残されたものは、まったく準備ができていません。死が何であるかさえ、解ってはいません。生物学の知識だけでは、喪失の苦悩を癒せないのです。絆を断たれた大脳辺縁系は、「あの人はどこへ行ったの?帰ってきて!」と叫び続けます。
 ついも傍にいてくれる、それが当たり前だった。他の誰が去っていっても、この人だけは永遠に去ってはいかない、そう思っていた人に去って行かれたのですから。
 言い争ったとき、相手に向けて投げつけてしまった言葉を、それが何年前のことだったとしても、ありありと思いだし、罪悪感に苛まれます。相手に与えてしまったストレスを、もう償えないことに、無力感を感じます。
 また、人生の理不尽さを思わずにはいられません。のんびり過ごせるはずの老後もなく、働きづめで終わってしまったなんて、掛け金だけ納めて商品が届かなかったようなものじゃないかと。もっとおいしいものをたくさん食べてほしかった、楽しい経験を重ねてほしかったと、胸が痛みます。
 胸の痛みは文学的形容ではなく、実際に締め付けられるような胸痛が起き、食事は喉を通りません。抑えつけられるような緊張性頭痛も、過敏性大腸炎も続きます。
 脳は混乱し、身体はそれを危機と判断して、交感神経が過剰に反応します。不眠と栄養不足は、免疫力の低下も招きます。予期された場合よりも不意打ちに訪れた別れの方が、この傾向が強くなります。
 ストレスが限界量を超えると、思考回路はシャットダウンします。これからの将来を見越して備えることなど、脳裏に浮かびません。ただ目の前の事務的な手続きを淡々とこなすだけで精一杯です。何が起きたのかを客観的に眺められるようになるまでには時間がかかります。
 「神はその人に耐えられないストレスを決して与えない」などといいますが、極限のストレスに遭遇すると、脳はそれを直視しないのです。
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テーマ: 癒し・ヒーリング | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 認知と癒し

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