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批判屋-棘のある隣人

いちいち相手の心にグサッと刺さるような、皮肉や嫌味を言わなければ気が済まない人がいます。常日頃から、口にするのは第三者への酷評ばかりで、見え透いたお世辞以外に他者を誉めることがありません。会話の中で、珍しく目の前の相手を誉めたかと思ったら、即座にけなして、今の誉め言葉を台無しにしてしまいます。  わたしたちは、子供のころから、他人の意見に耳を貸すようにと教わってきましたが、たとえば、PCの不具合に苦慮しているときに、PCに触れたこともない隣人からああしろこうしろと言われたところで、耳を貸すでしょうか?必要なのは経験者のアドバイスです。自分ならこうするという建設的なビジョンのない批判は、あまり価値がありません。価値がないばかりか、有害です。
 
 こちらに悪意はないのに、なんとなく相手からの悪意を感じるとき、自分のコミュニケーションスキルが至らなくて、相手に不快な思いをさせてたのではないかと、罪悪感にも似た感情の揺らぎを覚えることもあるかもしれません。
 けれども、それは責任の背負いすぎかもしれません。虫が好かないという理由で、平気で相手をいじめ抜く人もいます。自分を偉く見せるために相手を徹底的に貶める必要のある人もいます。

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人間関係の質が人生の質を決めるといっても過言ではありません。それだけに、小集団の中に皮肉屋が一人いると、それはまるで喉に刺さった棘のようです。相手の好意を勝ち取って環境を快適にしようと、薄氷を踏む思いで迎合的に接したり、相手の皮肉には傷ついていないふりのポーカーフェース。そうこうしているうちに、自尊心は傷ついていきます。
 相手の敗北の上に自らの脆弱な自尊心を築こうとする人は、当然のことながら友人にも恋人にも、隣人としても不向きです。
 ターゲットにされて続けていると、相手への蔑みといった心理が生まれてきます。気が付けば、自分もまた、その人やその人に友好的な相手を批判ばかりしているという状況さえ生まれかねません。どうしても接する相手ならば、距離を開け、フォーマルに徹する方が、ベターと言えます。自分のためだけではなく、相手のためにも。
 こちらに悪意がなくとも、自分の存在そのものが、その人のコンプレックスを刺激してしまっているということもあるのですから。その人は恐れを抱いて、自分自身を守るために目の上のこぶを攻撃し、しかもそれが自分に与えられた当然の権利だと思っていることさえあります。そうした場合、無理をして相手との間に絆を築こうとしても、うまくいきません。
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