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グリーフ 突然の喪失

 朝、目覚めると小鳥のさえずりや、あるいは通りの喧騒が聞こえてきます。聞こえる、わたしたちはそれを当然と思っています。咲いている花を眺めたり、行き交う人々が目に入ったり。見えることも、当然と思っています。語り合う家族が傍にいることもまた、当然なのです。
 もちろん、出会いの向こう側には必ず別れがあり、身体機能もまた、いつかは損なわれていくものだと、知っています。ですが、知っていることと覚悟することとは違います。いつかは訪れるものだと知りつつ、それを遠い将来のことと退けながら、わたしたちは日常を慌ただしく生きています。それは一種の防衛機制といえます。常に命のはかなさばかりに目を向けていては、うつ状態になってしまいますから。
 背を向けたその背中に、喪失は突然牙をむいて襲い掛かる暴力です。その突然の別離は、残されたものの生きる意味や気力までも打倒してしまいます。
 小鳥はさえずり、花は咲き、地球はこんなに美しいのに、あの人は何処に行ってしまったのか。死とは何なのか。生きることとは何なのか。
 その人はもはや、痛むことも苦しむこともない世界に居るという概念を持ったところで、共に生きる相手を失った究極の孤独は癒せません。喪失の痛手は希望の喪失に他なりません。これからの長い時間を、来る日も来る日も一人で過ごし、孤独に耐え、孤独を飼い慣らして、困難に遭遇するたび、一人で考え一人で行動し、やがて来るはずの自分の死を一人で迎える覚悟をしなければならないと知る深い絶望なのです。

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「ひきこもり」は家族の支えの上に成り立っていますから、寄る辺のない孤独な状態ではありません。よりよい人間関係を望みながら、傷つく関係を怖れて外へと踏み出せないのです。
 人は支えを失って寄る辺りない状態に陥った時、必死に他者を求めます。覚悟して山にこもる修行者でもない限り、来る日も来る日も誰とも話をしない、テレビ以外に人と出会わないという状況は苦痛です。
 誰でもいいから人と話したい、という状況は新たな問題を生みます。相手のニーズに振り回されたり、家族のいる周りの人々がみんな幸せそうに見えて、いっそう孤独が身に沁みます。それでも、一人になるよりは、そうした喧騒がまだしもましだと妥協します。
 人は幸せな状況ばかりでは、多くを学べません。喪失体験は、一番大切なものを教えてくれます。それは社会的成功や財産だけでは、けっして心は満たされないという事実です。今傍にいる人々を愛せなければ、愛されたいと望むばかりで、自ら愛を注げなければ、真の幸せを感じにくいということです。
 傍にいる隣人たちが、自分から何かを奪っていくのではないかと恐れ、身構えながら、架空のアイドルや神なる存在に愛されているという空想に浸っても、人間関係は暗転するばかりです。
 より多く出会い、より多く愛し、より多く笑えたら、それはいい人生だといえるでしょうか。
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テーマ: 癒し・ヒーリング | ジャンル: 心と身体
カテゴリ: 認知と癒し

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