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依存と妄想

 誰かにときめきを感じた時、その相手と親しくなりたいと誰しも思います。願いがかなった時の情景を、空想することもあるかもしれません。
 その時、脳裏に浮かんだ光景は何でしょうか?過去の恋や人間関係で傷ついた経験を打ち明け、「辛かったね、もう大丈夫だよ、これからは。」と抱きしめられる図だとしたら、ちょっと危険です。
 相手も、困難なことがたびたび訪れる人生を、迷いながら歩いている自分と同じような人間なのですから。過去の諸々の傷を癒してくれ、親ですら与えられないような愛情を与えてくれる存在など、どこにもいません。そうした対象になってくれることを期待すると、後で「裏切られた」と騒ぐことになります。挙句に、現実の人間に失望して、架空のアイドルの住む世界に引きこもることにもなりかねません。ある若い人々は、非の打ちどころのない理想的なアイドルが、自分を愛してくれるという夢想によって、愛情欲求を満たそうとします。この時、「私は今、現実の不毛さに満たされず、夢の中に逃避している」と自覚していればいいのですが、夢の中に安住し、現実世界を見下してしまうようでは危険です。

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精神的に成熟した人は、相手に一方的な依存願望を持ちません。絶対的に自分を愛し、守ってくれる誰かを、必要としないのです。絶対的な存在から、特別扱いされ、守られなくとも、自分の周りにいる人々を気遣い、ちょっとした好意を注ぐことで、連帯感やよい関係を築いていかれます。こうした人々の好意には裏表がありません。自然体です。
 
 なぜ居もしない人に、そんなに愛される必要があるのか?これは、それを必要としない人にとっては、なかなか容易に理解できないことです。
 ですが、依存願望の強い人にとって、目の前にいる他者は、自分のニーズを満たしてくれない、不完全で利己的な存在であり、好意を注げないばかりか、信頼もできないのです。
 現実世界に立ち返るには、愛されなくも大丈夫な自分を確立すること同時に、ありのままの他者を受け入れ、愛や尊重を受けることを望むばかりでなく、与えることを覚える必要があるといえるでしょう。
 それには愛されない経験を知る必要があるでしょう。人は愛されて愛を知るわけではありません。ただ一方的に愛されるだけでは、怠惰を覚え、その相手を軽んじてしまう可能性も大きいのです。
 人は敗戦、敗れたゲームから、人間の深淵を知り、教訓を学びとるものです。傷つくことを怖れ、安全にしがみつこうとすると、その対象は、ついには妄想しかなくなってしまいます。それではいつまでも成熟できません。
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