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理不尽な隣人

 人はそれぞれ。やっている仕事も、取り巻く人間関係も、当然、考え方も違っています。それなのに、なぜか、人は自分のスケール、物差しで周囲を測ろうとするのですね。相手の立場や、住んでいる環境や、背景にあるこれまでの人生経験など知ろうともしないで。
 そのうえ、愚かなことに、自分を教師の立場において、あれはいけない、こうするべきだ、うんぬん、言いたがります。これは自他の心の境界を越境しています。自分の好みや考え方を押し付けるのは、相手への侵略です。身体の境界と違って見えにくいために、つい犯しがちなのです。しかも、自分はいいことをしている、相手のためだなどと、思い上がっていたりします。
 その人がどう生きるのが正しい生き方かを、その人以上に知っていると考えるなど、思い上がるにもほどがあります。実際、正しい答えなどどこにもないのです。ただ、あるかのように見える場合はあります。その組織、集団の目的、方向性という秩序が、個人に圧力をかける場合です。ピア・プレッシャー、同僚からの圧力に対峙するには、無傷では済まないかもしれません。何がしかの喪失を覚悟する場面も多いでしょう。
 
 中には、絶えずトラブルを引き起こす人もいます。嫌味や皮肉、揚げ足取りを言わずにはいられない人、自分の自尊心を維持するために、まわりの人たちを否定せずにはいられない人、一方で自慢して、自分が勝っている点を誇示しなければ気が済まない人もいるでしょう。

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 そうした人の近くにいると、自分は相手に対して、嫉妬も敵意も抱いていないのに、なぜか攻撃対象にされていると、不快な思いを募らせるかもしれません。自分のどこに隙があって、付け込まれたのかと、ふがいなく思い、自分を責めて泣くこともあるでしょう。抗議したい、言い返したい衝動にも駆られるでしょう。
ですが、気付いているはずです。その人と、同じ土俵には乗れません。危うい自尊心を維持するために、誰かを傷つけなければいられないその人と、同じ土俵には乗らなくてもいいのでしょう。
 喚き散らして、関係のない人たちを不快にしなければならないほど、その人の孤独や痛みは、深いのかもしれません。
 願わくば、理不尽な言動に対して、反省してほしい、こちらが受けた心痛に対して、謝って欲しいものです。ですが、これも高望みというものでしょう。そもそも、他人の痛みに気付けるくらいなら、それほどまでにはた迷惑な存在にはならなかったことでしょう。

 健全な自尊心とは、他者からの侵略に、一応耳を貸したとしても、不本意に流されないことでしょうか。自分で考え、選び、その結果を引き受けるだけです。その結果がどうあろうと、うまくいっている他者を妬む理由はありません。
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テーマ: 不安定な心 | ジャンル: 心と身体

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