Sponsored Link

ドタキャン 回避の心理

 逢いたくて、待ち遠しかった、楽しみにしていた約束を、土壇場でキャンセルされると、寂しくてたまらなくなります。私はそれほど逢いたい存在ではないんだな、それなら、なぜ誘ってくれるのかなと、相手の意図が読み取れません。
 でも、好きだから、大切な人だと思っているから、ショックを隠して、じゃあ、この次、またね。と、明るく振る舞います。そんなことが繰り返されると、振り回されて、疲れてしまいます。
 実際、たいして用があるわけでもないのに、なんとなく、その日の気分次第でドタキャンばかりくりかえす人は、相手のことをそれほど大切に思っていないのでしょう。少なくとも、相手の痛手を察することができません。いつも、眼差しが自分に向いています。約束を実行することが、その日の自分の気分を高揚させそうなら、すんなりと守りますが、何かしら損失に目が向くと、躊躇い、行動が起きません。
 相手が、その約束が、自分にとってプラス部分が大きいのか、それともマイナスなのか、常に天秤ばかりの上で、葛藤しています。その葛藤が、行動に現れるのでしょう。
 相手が自分のために、料理や掃除など、何かしてくれる分には会いたいのですが、相手のために何かしなければいけない、金銭的負担を担ったり、責任を引き受けたりは、回避したいという思いの表れかもしれません。その結果、相手が何かしてくれそうな場面には会い、負担を強いられそうなシーンは回避という選択になります。支えを求めているけれど、与えたくない人と言えるかもしれません。

Sponsored Link

「なぜ、いつもドタキャンなの?その言い訳は嘘でしょう?」
と、詰め寄ると、「なんでそんなことぐらいで騒ぐんだ?」と、相手は腹を立ててしまいます。行きたくないから行かないだけなのに、そんなことで責められるなんて、嫌な人だという理屈です。
かといって、いつもいいなりになって、相手のニーズに応えるだけに徹していては、便利に使われる都合のいい存在になっていくようです。当然、少しずつ、少しずつ、ストレスもたまっていきます。
 ドタキャンは、回避性パーソナリティの顕著な言動と言えるかもしれません。相手との交際を望んでも、行く手に明るい未来を描けません。明るい未来を築くための努力も厭います。交際したら、意見の食い違いなどのわずらわしいことも起きるだろうし、時間的、経済的負担も増えてしまう。そうしたネガティブな未来予想を払拭するほどの魅力には満たない相手なのでしょう。ですから、たとえ、そうしたわずらわしさがあったとしても、人と人が支えあって生きる喜びに注目しえないのです。利用できる部分では付き合ってもいいけど、負担は回避したい相手にすぎないということです。
人間関係は、厄介なものかもしれません。対立を避けようとすれば、本音を隠してフォーマルに終始するのがいいのでしょう。ですが、そこには喜びも乏しいこともまた事実です。殻を破って本音が語れて、それが受け入れられた時、その関係性は喜びの多い、次のステージに移行するのかもしれません。前もって、起きるかもしれない厄介なことを想像して、何事にも迂回していく生き方が習い性になっていると、そこにはいつまでも到達できないのかもしれません。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する