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喪の作業

 パートナーは空気のようなものだと感じる人は、多いことでしょう。そこに居るのが当然で、日頃それを意識することもなく、感謝すらしないけれど、決して裏切られるようなことはない、すべての人が去っていったとしても、この人だけは傍に居てくれる、そう信じられる存在かもしれません。
 何もない貧しい日常を過ごしていても、傍らにその人がいる、それだけで、ああ、幸せだと感じられる日常。その日常にある日、突然終止符が打たれます。
 突然の死は遺族の心にパニックをもたらします。まさか!わたしの人生にこんなことが起きるなんて!
 深い罪悪感にも捕らわれます。あの人に、何をしてあげることもできなかった。申し訳ない。
 実際には、相手の人生の最後まで一緒に居てあげたわけで、それは何ものにも代えがたいことですが、そうと気づくのはずっと後のことです。
 老いていく寂しさも病んでいく苦しみも、死の恐怖も、その人は知らずに済んだ、平和な時代を生きることができた、それは、もしかして、幸せなことかもしれないと、納得できるのも、ずっと後のことです。
 帰ってきてほしい、そのためなら自分の命と取り換えてもいいと願います。たった独りで陸の孤島に取り残されるくらいなら、命を失うことなど何でもないことだと感じます。生きていたくないのに、命があるのです。
 その後の生活の大変さから、「あなたさえ生きていてくれたら、こんな苦労をしなくて済んだのに!」と、内心叫ぶことも何度もあるでしょう。
 あの人は、何処へいてしまったのか。死とは何なのか。生きているとは、どういうことなのか。そんなことを日々考えてしまいます。死因を詳しく調べずにはいられなくもなるでしょう。亡くなった人との絆が強ければ強いほど、悲しみは深いものです。幸せと不幸せは、対極にあるものではなく、幸せが不幸の原因となることにも気づきます。

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他の家族や支えとなる人間関係がない状態では、究極の孤独と、前途への絶望に襲われます。そこからの救いのために、他の人々との接触を必死に求めようとします。友人知人にコンタクトを取り、孤独を避けるために他人に関ろうとなりふり構わず、躍起になります。趣味や価値観、世界観の違いなどに構っていられない、ともかく人と話したい、接していたい状態です。
 亡くなった人について話すことを避け、周囲の人々が、家族やパートナーの話題に和むときも、微笑んで付き合います。価値観の相違にも耐え、動労や金銭的負担にも耐え、葛藤に耐え続けます。来る日も来る日も、一人ぼっちで過ごす苦痛には代えられないのです。
 それでも、付き合うひとにメリットがない、重いとみなされてか、去っていく友人もいます。支えが欲しい時に去って行かれるのはショックですが、そんなときには、追いかけることはしません。相手の重荷にはなりたくないのです。
たった一人の家族、パートナーとの死別は、人生最大の試練かもしれません。溺れて沈みながらもがき、あるいは、切り落とされた片腕を繋ごうとして探している状態と言えるかもしれません。しかも、自分がそうしたパニック病態にあることすら気づきません。
 せめて独りでいるときは、元気な振りをやめてもいいのでしょう。抑うつに陥って当然なのですから。
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