人は、特定の誰かに対して、信頼したいと願っています。裏切られるのは、その期待感なのです。
この人なら、と、悩み事を打ち明けます。ところが、その友人が、他の人から受けた相談事を話題に、批判がましい雑談をしている場に、出くわします。わたしのことも、陰でこんなふうに言われているのかもしれないと、途端に落ち着かなくなります。
また、不意の出来事にパニック状態に陥り、心細さを吐露したところ、友人がすっかり引いてしまい、また来週逢おうと約束しながら、以後、音信不通になってしまった。別段、助けてほしいと言ってるわけじゃない。それほど、頼っているわけでもない。ただ、「大丈夫だよ。わたしがいるじゃない。」と、社交辞令でもいいから言ってほしかった。
支えてほしい時に、支えてもらえなかった。うかつに、本音を漏らすと、ろくなことにはならない。悲しいけれど、そう思える。
人は、心のテンションが下がっているときほど、周囲からの励ましを求めるものです。それだけ、周囲の人たちには重たい存在になっているといえます。自分でも、それが解っているだけに、密かに涙を拭って、笑顔を心掛けることも多いでしょう。そんなふうに外面と内心が乖離していると、疲れることも多く、心の中には、葛藤が生じがちになります。
不信感は、周囲にケアを求めているときほど、強く心に立ち現れます。あの人もこの人も頼りにならない。約束も、なんだか信じられない。
そんな時でも、信じられる人は一人だけいます。それは自分自身です。心が絶望に打ちのめされているときでさえ、じっと堪えて微笑んでいられる自分の静かな力を、もっと信じてあげましょう。様々な困難なシーンを越えて越えて、あたかも平穏であったかのように微笑んで、喚かず、当たり散らさず、静かに、今日まで生きてきた自分自身を。
不信感は、周囲にケアを求めているときほど、強く心に立ち現れます。あの人もこの人も頼りにならない。約束も、なんだか信じられない。
そんな時でも、信じられる人は一人だけいます。それは自分自身です。心が絶望に打ちのめされているときでさえ、じっと堪えて微笑んでいられる自分の静かな力を、もっと信じてあげましょう。様々な困難なシーンを越えて越えて、あたかも平穏であったかのように微笑んで、喚かず、当たり散らさず、静かに、今日まで生きてきた自分自身を。
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