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自己愛が過敏になるとき

 人間関係に疲れて、ちょっと距離を開けたいと感じる時、そこには自尊心の傷つきがあることでしょう。自己愛が充たされていないのです。周囲が満足に自分を評価してくれないといった不満も抱えていることでしょう。
 他者から受け入れられ、良い評価を貰うことによって、その集団の中に居ることに安心感を得たいと考えていると、どうしても他人の目が気になります。当然気遣うことが多くなり、それは社交上のものであることが多いので、頑張りに対して成果が得られないと疲れを覚えます。
 わたしたちは、人生の途上で、何度か、連帯感のある団体の中に、後から一人入っていくような場面に遭遇します。適応を強いられる場面です。周囲は、積極的に手を差し伸べて招き入れてくれるような人ばかりではありません。むしろ、こちらから積極的に、その社会のカラーに染まることを要求されることが多いことでしょう。いきなり新しいやり方を提案しても、受け入れてはもらい難いことでしょう。必然的に言葉を選び、意見も慎重に小出しにする方が賢明だと考える人も多いことと思います。
 自らを抑制し、相手に従うのは、常にストレスがかかっていますので、ふと投げ出したい衝動にも駆られます。馴染むまで、打ち解けるまでの期間限定、慣れると楽になると考えないと、やっていられません。

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また、比較的短時間で馴染めるタイプの人もいれば、いつまでも、何かしっくりこない人もいることでしょう。他人からの評価を気にしていると、その人からの評価に、全否定されたような錯覚さえ起こしかねません。過剰な努力の疲れが一気に出て、もうやめたいと思うかもしれません。
 人の評価は、一つの事柄、一つの能力、一つの仕事の良しあしに寄る場合がほとんどです。それをもって、相手の人となり全てを推し量ろうとする傾向が人にはあるのです。その人の他の側面、他の傾向、そしてそれを形作ってきたその人の歴史、それを理解するには長い時間がかかります。扱いにくい、ちょっと「困った人」も、その人が通ってきた様々な人生経験を知ると、無理もないと思えることもあります。
人間関係に疲れを覚えるとき、相手の言動に不信感を抱いていることが多いものです。その状態が不快だからと、やみくもに相手を信じようとしてもうまくいきません。不信を払拭するのは理解なのです。
 周囲を困らせたり、迷惑をかける言動を取る人には、そうせざるを得ない事情や、これまでの人生経験の結果、身に付いた信条といった背景があります。それが理解できると対処しやすくなります。すくなくとも、自分の態度に問題があったのではないかと、過剰に責任を背負い込むことから、解放されます。
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