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自分を守ること

 相手の些細な失敗を執拗に責め続けたり、癖や身体上の特徴を嘲笑ったり、大勢の前で怒鳴りつけたり、あからさまに無視したり、居ないかのようにのけ者にしたり、そうした扱いを日常的に受けていると、誰しも心理的に追い詰められてしまいます。人間関係の移動が少ない閉鎖された社会では、さながらウィールスが蔓延するように、居合わせる人々が不健全な感情に汚染される可能性があります。
 このようないじめの問題の深刻さは、その当時だけでなく、その環境を離れた後も、何年も何十年も被害者の心を蝕んでしまうところにあります。なぜいじめられるのか、なぜ、こちらは何の悪感情も持っていないのに、一方的にそんなに嫌われるのか、このような扱いを受けて当然なほど、自分の性格が劣っているのだろうか、だからいじめられやすいのだろうかと、日々悩み続け、自分を恥じ、責めてしまいます。自己否定が身に付いてしまい、簡単には自信を取り戻せません。だからといって、別の性格になり替われるわけではないのに、たいせつな自分の個性を受け入れられないのです。

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いじめられる原因が自分にあると考えてしまうところから、こうした自尊心の低下が起こります。いじめる側の精神状態の悪さは、視野に入っていません。
 自分に原因があると考えると、相手に受け入れられるように努力しようとします。それは苦しいばかりでなく、たとえそれが成功したとしても、相手にとって都合のいい存在になるだけに他なりません。非難攻撃すれば期待に応えてくれると言う認識を与えてしまいかねないのです。
 それだけの犠牲を払った挙句に燃え尽きてしまえば、加害者を一生涯許せないと思うのも無理からぬことです。そこで、また、許せない自分を狭量だと責めてはいけません。被害者の心に危害を加え続けながら、身体にキズが付いていないから無罪某免などとは、虫が良すぎます。もっと主体的に「一生涯許すつもりはない」と自らの心に断言するとすっきりします。それは、自分自身が自分の味方になるということです。
 いじめは加害者の自尊心が低く、不安や猜疑心が強くなった時に現れやすいものです。ですが、自分が余裕のない状態だからといって、誰しもが、関係のない他者、とりわけ弱い立場の相手に当たり散らすわけではありません。そのような真似をしても良心の呵責を感じないほど、病んでいるということでしょう。指摘されると、誤解だ、過敏すぎる、などなど、一言に対して立て板に水の言い訳が返ってくるかもしれません。人のせいにして自分を正当化するのは簡単だからです。ですが、その集団の満足度や生産性は確実に低下していきます。
 たとえ性格傾向がどうあろうと、精神的虐待やことばの暴力に甘んじる理由にはなりません。加害者と理解を深めよう、協調してやっていこうとするよりも、二人きりにならない等、距離を保つことも大事でしょう。相手が攻撃してくる時点で、すでに双方の関係性は切れているのですから。
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