疑心暗鬼は、誰の心にも忍び寄ります。日ごろ交流のない隣人や親族の言動を不審に感じたり、恋人や友人の心がちゃんと自分に向いているか気になったり。そんな時には、自分の心の中をちょっと点検してみてください。きっと、「不安」があることでしょう。
自分の健康状態に不安を抱いているとき、また、対人関係に傷ついているとき、疲れている時など、わたしたちは、他の事柄に対しても疑心暗鬼を生みやすい精神状態にあるといえます。こうした時は、周囲からのサポートや慰めが欲しいときなのです。
ところが、周囲からの理解は得難く、私情にかかわらず仕事はスマイルでこなさねばならず、といった状況が続くと、他人のちょっとした態度にも過敏になってしまいます。何でもない言動を、自分への非難と受け取りやすくなるのです。
上司や同僚の態度が、ちょっとよそよそしい。「こんなに頑張っているのに、まだ不足なの?利用価値がないって言いたいの?」いえ、その人はその人で、他に問題を抱えていたり、疲れているのかもしれません。にもかかわらず、「私が疲れていて、すぐに電話しなかったから、もう嫌気がさしているのでは?」などと心が騒いでしまいます。自ら、読心術を駆使して不安を煽っているのです。
相手との繋がりを感じられないとき、不安や怖れはもくもくとわきあがってきます。疑心暗鬼は、もっと確かな繋がりを感じたい誰かや、ときには職場などの集団内に居合わせる人々と、連帯感が希薄になったときに生じる感情なのです。
繋がりを感じることで、この不安は癒されます。少しでもいいのです。誰かの優しさに触れれば、それだけで、心に安心と落ち着きが生まれます。他の誰かにも、少しばかりの優しさを分けてあげたいといったゆとりも生まれます。こうした慈愛は不確かで、わたしたちの心を不安にする源ともなりますが、愛よりも深く心を満たすものはありません。
心に愛がなければ、人は他人を恐れて退けようとしたり、相手に勝る力を持って相手を制し、安心を得ようとします。妄想性障害は、権力者の病などと言われています。たとえ、周囲をひざまずかせる力を有していても、傍らにいる人を信頼できなくて、はたして幸せといえるでしょうか。
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