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いじめられ体験

 人の群れるところならどこでも、そしてその集団の構成員が若ければ若いほど、いじめは起きてしまいます。グループで、あるいは集団で、一人をターゲットにして、あざ笑ったり、忌み嫌ってのけ者にしたり、それは娯楽のようなものかもしれません。そこに、罪悪感や良心の呵責、自分の行動を恥じる意識はありません。それらを持つには、もう少し、精神の成長が必要なのです。
 加害者にとっては娯楽の一種かもしれませんが、仲間はずれにされ、孤立し、いじめられる当事者にとっては、生きていることが嫌になるほどの辛い体験です。その小学校や中学校を卒業して、加害者と縁が切れた後も、何年たっても、癒えない傷を残すこともあります。

 被害者は、親にも先生にも、言いづらいものです。ターゲットに選ばれてしまったこと、それ自体屈辱的なので、とても自分からそうだとは言えません。
 実際は、数人がかりで、反撃しない相手をいたぶる行為こそが恥ずかしいものですが、いじめられている人は、言い返せない自分の弱さを恥じ、自分の性格が悪いからだ、暗いからだ、と自分を責めてしまいます。

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もしも、子供から相談を受けたら、いってはいけない言葉があります。「あなたにも原因があるんじゃない」「あなたはいじめられやすい性格だから」「もっと強くなってやり返せ」
 ただでさえ、自分の弱さを責め、いじめの対象となる走り方やしゃべり方の癖も恥じ、自己評価がどん底まで落ちているのです。やり返せるくらいなら、初めからいじめになど会いません。性格のせいだと言われても、治しようがありません。

 こうしたメッセージを受けると、自分は人間として欠陥がある。ダメな性格なんだ。と、ますます自己否定感は強まります。生まれてきたことを後悔するほどに。
 いじめられて当然の性格や個性など、あるはずがありません。むしろ、いじめを快楽と感じる意識の中に、反社会的なパーソナリティの芽が宿っています。他者の痛みを学び、他と協調して社会で生きる術を学ばねばならないのは、加害者の方といえるでしょう。
 オオカミ集団の中に子羊を投げ入れる、いじめが集団対被害者一人という構図になり、集団化しているクラスに子供を登校させることは、これほど危険なことです。学校を休む、転校するのも選択肢の一つです。
 勉強が遅れる、転校は容易ではない、等の理由から、大人はこの選択肢を望みません。そうした大人たちは、訳知り顔で語ります。いじめられやすい子は、どこへ行ってもいじめられると。いじめ被害者は、不登校さえもままならないのです。
 そうした中で、命を絶ってしまう子供もいます。生まれてきたくなかったという理由で。
 早まってはいけません。小学生時代も、中学生時代も、永遠には続きません。卒業すれば、そのいじめっ子集団とは縁が切れます。また、小学時代、中学時代にいじめられたからといって、どこへ行ってもいじめられるわけではありません。
 いじめ菌の蔓延するクラスには、暗黙のルールがあるのです。まずリーダー格の一人がいじめを始めると、従属的な数人がそれに追随します。すると、傍観する多数派は、それを受け入れます。是非を問うこともなく、見慣れた当然の光景になってしまうのです。企業であれ、クラスであれ、構成員が固定された風通しの悪い環境下で、こうした現象は起こります。
 いじめの蔓延する環境からは、いち早く撤退することが心を守る対策ですが、義務教育下では容易ではありません。ですが、幸いなことに、加害者たちもいつまでも子供ではありません。成長していくほどに、露骨ないじめは下火になっていくものです。
 被害者に残された課題は、自分は決して人として劣ってはいないという自覚を積むことでしょうか。人を見る目を養い、恐れずに人の中に入っていきましょう。
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テーマ: 人生を豊かに生きる | ジャンル: 心と身体

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