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宗教カルト

 たとえ強大な力を自負するものがいたとしても、しょせんひとりの人間という存在は、か弱いものであることに変わりはありません。第一、その生命体としても限界を越えることはできません。
 すると、人は、自らの限界を越える力を、そうした力を有する存在を、乞い求めるものかもしれません。太古、環境に翻弄されていた人類は、宗教に魂の救いを求めてきました。
 不条理を生きる人の心を癒す装置として、宗教は機能してきました。現代もなお、宗教の哲学に慰めを見出す人は多いものでしょう。
 それは、個々人の人生観の領域です。これが、特定の教団となると、本来の趣旨から外れてしまいます。器を築いて、魂を入れずといった現象も起きてしまいます。職業宗教人の横暴を許す土壌となりうるのです。

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必ずしも、そこに悪意があるわけではありません。本人はいいことをしているつもりでやっていることも多いものですが、自分自身がすでに依存症に陥っていることに気付いていないのかもしれません。そして、依存症ではない人々の心理を理解しえないでいるのかもしれません。自らが心を正して生きることと、布教勧誘とは関係のないはずなのですが。
 自らの活動を正しいと確信し、共鳴せぬ人を劣った存在と位置づける、独善的な思考が危ういといえそうです。「社会のために尽くそう」といったきれいごとで、組織の強化、拡大化を図ろうとするリーダーは、要注意でしょう。無私の献身を求めて、それによって自分が利益を得る、という場合が少なくありません。往々にして教団の信者は貧しく、リーダーは金持ちだったりするものです。社会のために尽くすことは素晴らしいですが、そのために自分の生活が崩壊するようでは本末転倒です。
  一個人が立ちあげた教団は、暴走しやすい傾向にあります。リーダーに意見を述べ、指導する人材の欠如に由るものです。リーダーが独断で好き勝手をできる土壌が、最初から用意されています。最初はわずかだった逸脱が、やがて常識を外れ、人の道にも外れてしまってから発覚し、崩壊していきます。
 今年は、地下鉄サリン事件から20年の節目に当たります。
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カテゴリ: カルト

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