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妄想ポジションと躁的防衛

 誰にとっても、自分の失敗とその結果に向き合うのは、辛い作業です。いい大人が、それなりの社会的地位のある人が、自分の非を指摘され、逆ギレして憤慨したり、しらを切ったり、他の誰かに責任転嫁するという醜態を見せる場面も少なからずあります。まるで、責任を指摘してくる相手に反逆することは、自己愛を守る聖戦であるかのようです。
 ストレスによって、人はこうした未熟な防衛に退行してしまう場合もあります。そして、落ち着きを取り戻したころ、自己嫌悪の抑うつに打ちのめされるかもしれません。

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とはいえ、人のせいにして周りを攻撃していた状態から、われに返り、自分の非に気づくのは、自尊心が痛みます。これを跳ね除けて、傷つかないことを選択する手段、それが躁的防衛です。
 躁的防衛は、支配感、征服感、軽蔑という、3つの感情に特徴づけられると言われています。たとえば、恋人や部下に去っていかれたとき、その人の価値を低く見積もり、たいして役に立たない人だったから、いなくなってもさほど不自由はないと考えることなどでしょうか。
 このように対象を脱価値化し、常に見下した意識で周囲に臨み、相手に自分の価値観を押し付け、思い通りに操作することで、自己有能感を高めようとします。周囲を疲弊させながら、本人は爽快癇に浸っているというわけです。一見楽しそうに見えるので、「躁的」と呼ばれます。
 相手をコントロールし、屈服させ、その相手を軽蔑することで優越感を守ろうとする態度は、強靭そうに見え、一見、軽蔑されながらも服従する側が依存的であるかのように思えてしまいます。ですが、相手を従え、自分の面倒を見させようとするのですから、強い依存心がそこにはあります。
 そして、フラットな双方向の関係性を築くことができません。いつもどちらが上でどちらが下かをはかっています。そのため、周囲からは自己中心的で身勝手な人と見られ、表面上は社交的でも、情緒的に触れ合えず、意外にも孤独感を抱きがちです。
 このような人はまだ、相手の立場を思いやれる域まで達していないのです。心が成熟するためには、自分の問題点という不都合な真実と向き合うことが欠かせません。自分の言動の落ち度に気付いて、落ち込むことが必要なのです。そこから学ぶことを通して人は成長し、もう二度と同じ間違いは繰り返さないという自分への信頼を得て、抑うつ状態から抜け出します。ここで相手を問題視して、傷つくことを避けてしまうと、こうした成長ができなくなり、同じ失敗を幾度も繰り返してしまいます。傷ついた対象への償いが滞るばかりでなく、同様の経験が積み重なり、相手が反感から敵対してくるのではという不安も高まり、いっそう躁的防衛でそれに対処するという悪循環も生じます。
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カテゴリ: 発達障害の周辺

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