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モラハラを回避するために

 友人知人や恋愛関係など、フラットな人間関係にも、いつの間にか上下関係が生じてしまうことがあります。相手を気遣って、相手の言い分を飲んでいるうちに、いつの間にか、相手にとってそれが当然になってしまい、ありがたみがなくなってしまうのです。
 人には、自分が優位に立てる相手が傍にいると、安心できるところがあります。そのような対象には、相手の気持ちを無視し、自分の主張を押し付ける言動を取りがちです。 無意識のうちに、あなたの意見はダメ、私の方が優れている、という思いが根底にあるのです。そのため、自分勝手に振舞ったり、有無を言わさず相手に同意させようとすることもあります。
 こうなると、もう相手を一人の人格として、扱っていません。所有物のような意識でしょうか。意のままに動いてくれる、分身といったところです。都合が悪いことに、手足ならば、傷つけば自分が痛みを自覚できますが、分身には神経が繋がっていません。切れているので、相手の痛がることを、繰り返し何度もやらせるのです。

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また、都合が悪いことに、そうした人が選ぶ相手は、忍耐強い人であることが多いものです。傷ついても、黙って相手に従います。
 ついに、忍耐も限界に達して、別れを告げると、ハラッサーは青天の霹靂のように驚きます。これまで、どんな扱いをしても去って行かなかった人です。これからも自分の言いなりになって、自分のために働いてくれると信じきっていたのです。とんでもないひどい裏切りだと受け止めます。
 これまで自分がしてきたことを振り返れば、当然の展開だと納得できそうなものですが、すぐにそうした心境にはなれません。これまで自分の意のままに動く従順なロボットだったのだから、これからもそうあって欲しいという依存心は強固なのです。涙ながらに反省の言葉を口にしてくれたから、もう大丈夫だろうと安心している間に、元の木阿弥です。
 人を粗末に扱えば、申し訳ないという良心の呵責が湧いてきます。この罪悪感は、健全な精神のバロメーターです。
 モラハラには、この慈愛の心が欠損しています。相手は劣った存在だから、言っても解らないから、黙って私の言う通りにすればいいんだと、本気で思っています。愛がないところに、支配があるのです。支配が幅を利かせるところに、慈愛はありません。
 我慢は美徳ではありません。心理的暴力をふるわれて当然の存在であるという、認識を招くばかりです。
 Noを言ったがために失うものがあるのなら、予め失う覚悟をしておきましょう。躊躇っている間、葛藤に苦しむことになります。
 何を言っても逆らったりしない、けっして別れようと考えたりしないから、愛されるはずだと思っているのなら、その考えも点検してみましょう。愛情深いがゆえに、軽く見られてはいないかと。愛情を行為で示すことは、下僕になることではありません。自分勝手な頼み事や要求は断ってください。相手を依存させることで、関係性を紡ごうとすれば、疲れるばかりです。
 もう、手に負えなくなってしまった、これ以上被害を受けたくないと感じるなら、逃げ出す好機です。
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テーマ: 人生を豊かに生きる | ジャンル: 心と身体

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